めちゃイケシリーズの生みの親であり、番組総監督を務めていたフジテレビの片岡飛鳥氏がフジテレビの50歳以上の早期退職者の募集に応募し退社することが明らかになりました。
めちゃイケ内の「ガリタ食堂」でお馴染みのディレクター明松さんも退職するそうです。
一時代を築いた総監督でもあった片岡飛鳥さんのこれまでと今後について調べてみました!
- 片岡飛鳥氏がフジテレビ退社!!ナイナイらめちゃイケメンバーとの出会いは?今後はどうなる?
- ゼロから芸人を探してめちゃイケを作った片岡飛鳥さんは自分に驕らず、ナイナイやSMAPなどいろんな人の力を借りて伝説の番組を作ってきた僕達の青春を作ってくれた最強プロデューサー!!
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片岡飛鳥氏プロフィール
(かたおか あすか)1964年10月24日生まれ 東京都新宿区出身 早稲田大学卒業
「俺たちひょうきん族」に憧れ1988年フジテレビに入社。
同期にはアナウンサーの八木亜希子さん、有賀さつきさん、河野景子さんらがいます。
入社1年目から念願だったひょうきん族のADとなります。
ADとしてたけし&タモリ&さんまのBIG3やダウンタウン、ウッチャンナンチャンと仕事をしてバラエティの演出を学んでいきます。
いいとものあのフレーズも生み出した!
飛鳥さんは1989年10月からお昼の人気番組「笑っていいとも!」のADとなりました。
テレフォンショッキングのコーナーでタモリさんが最初に「こんにちは!」というとお客さんも「こんにちは!」「東京は夜から雨みたいですよ!」というとお客さんは「そーですね!」このコール&レスポンスを考えました。
当時はいいともの前説はADさんの仕事で飛鳥さんも前説をやっていました。
その前説の中で飛鳥さんがお客さんとスタジオの雰囲気を良くするためにやっていたものをタモリさんが面白いとやってくれたのが始まりでした。
以降何十年とこのコール&レスポンスは定着して行われ続けました。
めちゃイケ生みの親。ナイナイらとの出会い
1992年「新しい波」という番組の総合演出をすることになった飛鳥さんはナインティナイン、よゐこ、極楽とんぼ、オアシズというのちのめちゃイケメンバーの主力メンバーと出会います。
当時ウッチャンナンチャンのやるならやらねばのディレクターだった飛鳥さんは、上司でもあった吉田正樹さんに「ウッチャンナンチャンは君が作ったわけじゃないからね。」と言われ、ゼロからウッチャンナンチャンやダウンタウンみたいなタレントを作ろうと思い、必死で人材を探します。
吉田正樹さんはやるならやらねばや笑う犬シリーズの総合演出をされた方ですね。
まともに挨拶もできないけどおしゃれなよゐこ、ネタがほぼ喧嘩で面白くなかったけど平場が上手だった田舎者極楽とんぼ、自虐のブストークが当時は新鮮だったオアシズ、礼儀正しく真面目な芸人らしくないナインティナイン。
この4組に本田みずほさんを加入させてめちゃイケの前身番組「とぶくすり」が始まります。
ちなみにとぶくすりには大久保さんは出てませんでした。あまり印象に残ろなかったから外したそうです。
その後「殿様のフェロモン」→「めちゃモテ」→「めちゃイケ」と続く礎となります。
伝説のオファーシリーズで岡村とケンカ!?
めちゃイケといえばオファーシリーズでミュージシャンのライブに岡村さんが突然乱入するという形を作ったのはめちゃイケでした。
その第1弾SMAPのコンサートに乱入する企画で飛鳥さんと岡村さんの間に溝が生まれてしまいます。
「芸人の自分がただ一生懸命踊るだけって面白いのか?」それは当時岡村さんが天然素材でも考えていたことと同じことでした。
飛鳥さんは当時まだいいともの演出もやっており、多忙のため演出意図を岡村さんにしっかり話せていませんでした。
「面白さがわからなくてもいいから、踊れ」と飛鳥さんは啖呵をきってしまいます。
岡村さんは不安のままSMAPのLIVEステージに飛び出し、無事企画は成功しめちゃイケも人気番組への軌道が乗り始めます。
あれがもしダメだったらその後の歴史は変わって、もっと早く『めちゃイケ』は終わっていたかもしれないです。だからこそ、そんな僕らと向き合ってくれた中居やSMAPにはいくら感謝してもしきれないんですよね。
出典:文春オンライン
飛鳥さんは当時のことをそう振り返っています。その4年後に「モーニング娘。」のLIVEにまたもオファーシリーズで乱入を成功させた岡村さんはお酒の席で「SMAPのコンサートで口答えをして申し訳ありませんでした」と謝ってきたそうです笑
最終回で感じた矢部浩之のスゴさ
めちゃイケの最終回。
全レギュラー陣が泣いている中ただ一人泣いていなかったのが矢部さんでした。
山本さんが戻ってきた時も絶対に泣かないと思っていた大久保さんが泣いても矢部さんは泣いてませんでした。
矢部さんはとぶくすり時代から番組のMCというポジションを任されてその後他の番組でもほぼMCのポジションをやっています。
MCは陰に隠れてメインの人を目立たせる。
そんな矢部さんのプロ意識の高さに飛鳥さんは感謝の気持ちでいっぱいだそうです。
めちゃイケとは何だったのか?ナイナイの前で涙を流した日
めちゃイケという番組は何だったのか?飛鳥さんはこう語っています。
いってみればメンバーたちが腹をくくって「同世代のライバルを持ち上げる」という役を演じてくれたんだと思います。神輿の上がエラいわけでもなければ、下がダメなわけでもない、あくまでも持ち場の問題。
出典:文春オンライン
2005年オファーシリーズで岡村さんがホールインワンを目指して夜遅くまでゴルフをやっていた回、みんな芸人を始めた時は自分が中心になりたかったはずなのに番組で同世代の岡村さんを見守っている他のメンバーに岡村さんは応えようとフラフラになりながら1500球打ち続けていました。
岡村さんを見守る姿に生半可じゃない気持ちを飛鳥さんは感じていました。
27時間TVで飛鳥さんが演出をやることになり加藤さんに日本テレビの24時間マラソンのパロディ100kmマラソンを企画しました。
予定では時間内に加藤さんがゴールしてお決まりの山本さんとケンカをする流れだったのですが、加藤さんが熱中症になってしまい、時間内にゴールできそうにないことがわかりました。
この時ケンカコントのフリとして用意していた岡村さんと具志堅用高さんのボクシングをメインに持ってくることになりました。
時間内に帰ってこない加藤さん、具志堅さんにボコボコにされる岡村さん、それを予定が急遽変わりながら加藤さんのことも気になってるはずなのに一生懸命岡村さんを応援している他のメンバー全ての原因を作ってしまったのは自分だと責任を感じ、泣いてしまいました。
後日談として加藤さんが帰ってきた後30分休憩してケンカコントはちゃんと収録したそうです笑
たとえ台本に書いてあったとしても、設定があっても、そうならないことがある。ならないときに、みんなとの共通言語や信頼関係があって、どう転ぶかわからないけど、やってみようというときが、一番テレビっぽいテレビになっていた。でも、たとえどんな結末になったとしても本当の部分はきっと画面に映って伝わるというか……どんなにコントをやっていても、最後に残るホントが『めちゃイケ』の後味だったんだと思います
出典:文春オンライン
飛鳥さんは22年間続いたこの番組をこう締めました。
フジテレビ早期退職
かつては視聴率でどの時間帯でも民放1位を獲ってきたフジテレビが今は民放4位が定位置となり、高齢の社員が多く全社員数約1400人のうち、50歳以上の社員が500人以上いるフジテレビは「ネクストキャリア支援希望退職制度」として、通常の退職金に加え特別待遇加算金が支払われるとのこと。
テレビの可能性をまだまだ見たいですが・・・時代なんですかね・・・
今後について
飛鳥さんは今後、新しく映像制作会社を立ち上げるとのことです。
おそらくTVだけではなくYouTubeも手がけていくのでしょう。今後まためちゃイケのような面白いものが見られることを期待したいですね!
まとめ
- 片岡飛鳥さんは八木亜希子さんと同期でフジテレビ入社
- いいともの拍手やお客さんとのコール&レスポンスを考えた
- 新しい波からめちゃイケまでメンバーと22年間番組を作り続けた
- 2022年フジテレビを早期退職
最近は後輩の指導にもあたってきた飛鳥さんですのでその若い人たちがまた面白いTVを作ってくれることを期待しましょう!
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
また次回をお楽しみに。