2023年3月を持って1982年から40年以上続いた「タモリ倶楽部」が終了しました。
今年78歳を迎え、「紅白歌合戦総合司会」や「笑っていいとも!」「ボキャブラ天国」「タモリ倶楽部」「ミュージックステーション「ブラタモリ」とバラエティ番組だけではなく音楽番組に教養番組など様々なジャンルの番組のMCとして活躍し続けています。
タモリさんには2人の恩人がおりその人たちのおかげで芸能界デビューし今でも活躍しています。
- タモリの長い芸能生活に大きく関わる二人の恩人って誰?
- ジャズピアニスト山下洋輔さんと漫画家赤塚不二夫さんとの出会いがその後の長い芸能生活に関わっていた!
タモリの幼少期〜上京まで
タモリさんは1945年(昭和20年8月20日)福岡県福岡市出身です。
本名は森田一義(もりたかずよし)といい、笑っていいとも!の正式な番組名は「森田一義アワー笑っていいとも!」です。
タモリさんのお婆さんは当時から「男も料理ができないといけないから私が料理をするところを見ていなさい」と言っていたらしく、暇つぶしにずっと見ていたら自分で作れるようになったそうです。芸能界でも随一な料理上手なタモリさんの礎もすでにできていたようです。
タモリさんは他にもトランペットが演奏できますが、高校時代に吹奏楽部に所属していたためにトランペットを担当していたために演奏できるようです。よく「タモリの今夜は最高!」でトランペットを吹いていましたね。
高校卒業後1年留年していたことがあり家でラジオが中国や韓国のラジオ電波を拾ってしまうことがあり、そこから適当な中国語を話し後に「4カ国後麻雀」になったそうです。
昔のタモリさんの姿を見たことがある人はわかるのですが、タモリさんは昔サングラスをかけるまでは右眼に眼帯をしていました。
小学校3年生の時に針金が刺さってしまい失明。その後治療の甲斐もなく右眼は見えないままです。
そういえば初めてタモリさんのイグアナのモノマネを見た時は眼帯だった気がします。
二人の恩人・山下洋輔と赤塚不二雄との出会い
1965年早稲田大学に入学するために上京し、トランペットができるタモリさんはモダン・ジャズ研究会に入り、これが芸能界へのきっかけになります。
早稲田大学に入学したのも女優の吉永小百合さんに会いたかったためらしいです
モダン・ジャズ研究会の先輩から「お前のラッパは笑っている」と批判されトランペットを辞めてしまい、マネージャーとしてバンドの演奏会の司会などをやっていました。その時のあだ名が「タモリ」です。
友人との旅行で友人の旅行費が足らずにタモリさんの学費を充て、旅行後友人からの返済がないために学費が払えなくなり、学費未納のため中退となってしまいます。
中退後もバンドの司会を東京で続けており、収入もありましたが叔父に福岡に引き戻され朝日生命に入社。そこで奥さんと出会い結婚。旅行会社に転職しボーリング場の支配人をしていました。
山下洋輔さんはジャズピアニストでありエッセイスト、作家として活躍し、山下洋輔トリオという人気ジャズバンドのメンバーです。
福岡市内をタモリさんが歩いているとやけに騒がしい一室があり中を覗くと山下トリオが飲み騒いでおりそこにタモリさんが乱入します。一緒デタラメ外国語や鼓踊りなどで朝まで盛り上がり、帰り際に「森田です」と名前を伝えて帰りました。
山下さんはタモリさんのことがとても気に入り名前だけを頼りにタモリさんを探し出し再会。喫茶店のマスターになっていたタモリさんのお店に、山下さんは福岡に赴く度にお店に遊びに行き、山下さんのエッセイにもそのことを書いていたようです。
山下さんが東京で「福岡にものすごく面白いマスターがいる」という話が一人歩きし、「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」が結成され、1975年6月に上京します。
福岡から月1回上京してタモリさんは新宿歌舞伎町の酒場で宴会芸などを披露していました。それを偶然見ていた赤塚不二夫さんは、タモリさんの才能に惚れ込み、自らの番組に出演させました。
福岡に帰ろうとするタモリさんを自宅に居候させました。しかも、赤塚さんの家や車を自由に使って良く月20万から30万のお小遣いを渡され山下さんや赤塚さんとネタを作るというとても高待遇の居候生活でした。
その間、赤塚不二夫さんははタモリさんにギャグや芸のノウハウを伝授しました。タモリさんは赤塚不二夫の教えを熱心に学び、徐々に頭角を現していきました。
タモリさんと赤塚不二夫さんは、師弟関係であり、また親友でもありました。2人はよく一緒に飲みに行ったり、食事に行くなど交流は続いていました。赤塚不二夫さんはタモリさんのことを「天才」と評し、タモリさんも赤塚不二夫さんのことを「恩人」と慕っていました。
2008年に赤塚不二夫さんが亡くなり、タモリさんは赤塚不二夫さんの告別式で、白紙の弔辞を読んだことでも知られています。
私はあなたに生前お世話になりながら、ひと言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを他人を通じて知りました。しかしいまお礼を言わさしていただきます。
赤塚先生本当にお世話になりました。ありがとうございました。
私もあなたの数多くの作品のひとつです。
引用元:日刊スポーツ
タモリさんの弔辞は、師匠でもあり友人でもある赤塚不二夫への深い感謝と尊敬の気持ちが込められていました。
本人曰く「面倒くさかったから」と言っていますが、これにはいくつかの考察があります。
- タモリさんも赤塚不二夫さんのギャグが好きで、よく真似していました。そのため、タモリさんは赤塚不二夫さんの弔辞に、ギャグを入れたかったのかもしれません。
- タモリさんが赤塚不二夫さんへの想いを、ありのままに伝えたかったから、そのため、タモリさんは赤塚不二夫さんへの想いを、原稿を読むのではなく、自分の言葉で伝えたかったのかもしれません
スポンサーリンク
25ヶ月連続見放題作品数NO.1
- 映画(洋画・邦画)・ドラマ・アニメなど230,000本が見放題!
- 男性女性ファッション誌、ニュース、芸能、グルメ、旅行誌読み放題!
- 1つのアカウントで4人まで同時再生可能!毎月1200pt付与で実質989円!
- ポイント利用でNHK見放題パックが無料に!!
まとめ
ギャラクシー賞を選定する放送批評懇談会が60周年を記念した賞の受賞者がタモリさんに決定しました。
過去には黒柳徹子さん、永六輔さん、脚本家の倉本聰さんらが受賞してます。
- タモリは幼少期から人間観察やデタラメな外国語を話して遊んでした
- 福岡にたまたま来ていた山下洋輔の飲み会に乱入して朝まで盛り上がる
- 山下洋輔が「東京にすごく面白い男がいる」と上京させるためにカンパを募る
- 上京したタモリに会った赤塚不二夫はタモリの芸を気に入って自分の家に高待遇で居候させた
- 赤塚不二夫の葬儀では白紙の弔辞を読んで話題になる
やっぱりタモリさんは最高のエンターテイナーですね。
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。
また次回もお楽しみに〜